TOPへ戻る 残された鏡  
マリア・カペッロの歌声の最後のビブラートが劇場の闇に消えたとたん、われるような歓声と拍手が彼女をつつんだ。
大成功のうちに2週間のローマ公演を終えた彼女に劇場の支配人は言った。
パリの公演が決定したんだ。その次はニューヨーク、今年のクリスマスはニューヨークで祝うんだ!
パリは今、万博の成功で沸き上がっている。大成功間違いなしだ。もしかしたらナポレオン三世もおでましになるかも知れない。

演目は今回と同じで、クレオパトラとアントニウスの物語を悲恋仕立てにしたものだった。今までの演出に比べてクレオパトラの登場回数を増やし、愛に苦しむ姿を切々と歌い上げたのが受けたらしい。
金の宝冠と何連もの真珠のネックレスを身につけたクレオパトラが、アントニウスを招いた船中の宴会で、真珠のイヤリングをはずして酢の中に落とすシーンは特に女性客の溜息をさそった。

この程度の真珠なんておしくもないわ、というエジプト女王の演出でアントニウスは恋に落ちたのだ。

このシーンを印象づけるために、マリアはあごから耳へのラインが美しく見えるように髪を結い、大粒の真珠のイヤリングを輝かせながら登場するのだった。

次の日曜日は侍女役の二人と一緒にフェリリーニ伯爵夫人主催の慈善バザーに参加する予定だった。これは、劇場の支配人の考えた宣伝のひとつだった。パリの新聞の隅に小さく紹介されれば、当然チケットの売り上げにも効果があるのに違いなかった。

日曜日は良い天気だった。フェリリーニ伯爵夫人はマリア達の手を取って公演の成功を祝福してくれた。
一時間ほど過ぎたとき、予想より人が多すぎたのが原因だったのか、誰かがロウソクを倒したのが原因だったのか、伯爵夫人のあたりから火がパッと燃え上がり恐ろしい悲鳴がバザー会場を押しつぶしてしまった。

マリアはどうやって逃げ出したのかも記憶になかった。
頬の痛みで目を覚ますとナースがマリアの顔や首に薬を塗り包帯を巻いていた。現実の恐怖が襲ってきた。「鏡を、鏡を見せて」マリアは叫んだ。
ナースは傍のテーブルの上に置いてあった手鏡をマリアに渡しながら言った。「大丈夫ですよ。1年もたてばすっかり跡は消えますから」
マリアは鏡を見ながら、バザー会場から外に出ようとしたとき、右の肩に火のついた何かが倒れてきた痛みを思い出した。

10人もの死傷者が出た大惨事だった。そして死者のなかにはフェリリーニ伯爵夫人も含まれていた。
マリアは打ちひしがれ1ケ月の間ベッドから起き上がることができなかった。

夢はマリアを置いて行ってしまった。新聞で劇団の成功を知った。マリアの代役はパリで大喝采を浴びていた。
クリスマスの前にマリアは借りていたアパートを引き払うことにした。少し買いそろえていた家具類は売ることにした。

最後の日に、マリアは頬から首へかけての傷跡を隠すためにスカーフを深くかぶり、傷痕がスカーフの中に隠れているかどうかを確認するために鏡の前に立った。
「今日は曇っていないのね」
いつも曇っていた鏡は今一点の曇りもなくマリアの顔を映していた。マリアはその鏡に向かって恨み事を言っても良かったはずだ。なぜ、私なの、なぜ、あの日だったのと。

しかし、マリアは、波打つ明るい色の髪が顔のまわりでゆれている美しいマリアを映した鏡に言った。
「ありがとう。だけどそれは昨日のわたしの顔よ」

それだけ言うとマリアは行ってしまった。もう少しよく見れば、髪でかくれている右の頬から首へかけての消えかかった傷跡が見えたかも知れない。