TOPへ戻る 端役を振られた鏡  
「ホームズ様。ブランドフォード様がお見えです」
ホームズはハドスン夫人の持つトレーから名刺を取り上げた。「お通ししなさい」ホームズは名刺を見つめたままで言った。

ブランドフォード卿は30代後半の中肉中背の男で、シルクハットを取ると額がやや後退していたがスポーツマン特有の力強い握手を返した。しかし、眼には悲しみが宿り心痛が頬に影を落としていた。
「どうぞお掛けください。なにかお飲みになりますか」

「私の妻が殺人の疑いをかけられているのです。どうか真実を明らかにして、やさしい妻を私のもとに取り戻していただきたいのです」
ブランドフォード卿は差し出されたウィスキーグラスを手に取り話始めた。

ホームズはブランドフォード卿の話に耳を傾けた。時折、その時ベリー夫人が先に席についたのですね、とか、ドーセット卿の様子はそれまで変わらなかったのですね、などと質問した。

2時間後、「わかりました。明日お伺いいたします。レストレード警部には伝えておきますのでご安心ください」といいながらブランドフォード卿を送り出した。

翌日、ホームズはワトソンとともに馬車でコルチェスターへ向かった。馬車の中でホームズは事件の概要をワトソンに説明した。「医者としてのアドバイスを聞かせてほしい。誰にも見られずに毒を盛ることは可能だろうか」
「最初からカップに仕込んでおくとか、当人にだけ別メニューをあつらえるかだな」ワトソンは揺れながら答えた。

「レストレード警部の話によると、これは昨夜教えてもらったんだが、全員が一つの皿からクッキーを取ったそうだ。おまけに丸テーブルで全員が適当と思われる椅子に着席し大いに話がはずんだらしい」
「というと、クッキーに毒が仕込んであったというのか?」「そのとおり。ドーセット卿はふたつ目のクッキーを手にしたまま仰向けに倒れたそうだ」
「だとするとなぜブランドフォード卿夫人が第一に疑われるんだい、調理人が疑わしいと思われるが、重大な動機でもあったのか。それに卒中の発作とかも考えられる」
「そうだ、ドーセット卿は50に近い年齢だった、卒中、心臓発作を疑ってもおかしくない。しかし、検死結果は毒による死だと断定されたそうだ」
「それで検出されたのか、ジギタリスとか」
「いや、まだだ。誰も見たこともない毒薬かも知れないということで、先日ミラノへ旅行した夫妻に疑いがかかったのだ。おまけにクッキーはブランドフォード卿夫人が焼いたものなんだ」
「へぇーブランドフォード卿夫人の趣味なのかい?」「夫であるブランフォード卿の話によると、ミラノでとてもおいしいクッキーを見つけてそれと同じものを焼いてみたんだそうだ。すばらしい味で、ブランドフォード卿夫人はそうやって夫や子供たちを楽しませる名人だそうだ」
「しかし、おかしくないかい、ミラノへ旅行した程度で毒殺の疑いをかけられるなんて。それに、なぜロンドン警視庁がそれほど深入りしてきたんだ。外国との利権でもからんでいるのか?」
「君はすごいよ。ドーセット卿は政界に多数の知人がいたんだ。アフリカの鉄道建設にも莫大な投資を行っていた。アフリカの件では、フランス人と係争中の事件があるそうだ。それにこれは噂だが、例のアイルランド自治法案否決に際してはかなりの影響力を行使したらしい」 「敵だらけだな」
「そうだ! だから今日この目で確認するのだ」

コルチェスターの海岸近くに建つブランドフォード卿の館についたのは午後1時過ぎだった。館は暗い雰囲気に包まれていた。

ホームズはブランドフォード卿の前にメモを広げた。それには、先日のパーティの参加者の名前が丸いテーブルのまわりに書き込まれていた。
ブランドフォード卿はメモを見ながら話始めた。
「ええ、間違いありません。私と妻は先月ミラノへ旅行をしたのです。とても楽しい旅行でした。それで、その時の話などを披露するためにパーティをひらいたのです。お招きしたのは、北隣にお住まいのベリー氏夫妻と、ここから少し東の岬に別荘をお持ちのドーセット卿夫妻です。
ベリー氏は貿易関係の仕事をされていますので、外国の話にとても興味をお持ちです。ドーセット卿はロンドンにお住まいですが、先月ご結婚されてからこちらに滞在されているとのことで招待状をお送りしたのです」

小食堂の丸いテーブルの位置はベリー氏、ベリー夫人、ブランドフォード卿、ブランドフォード卿の妻、ドーセット卿、ドーセット卿夫人だった。
テーブルの位置は決まっていた訳ではなく、最初にベリー夫人が着席し後はそれぞれが適当な席に着席した。ドーセット卿夫人は外国人でヨーロッパのいくつかの国に滞在したことがありそれぞれの言葉を喋ることができた。
軽い食事の後、ラム酒風味のミルフィーユが出された。大きな四角形のままでテーブルに置かれ、それをジョンソン夫人が6等分してめいめいのケーキ皿に置いた。

「少しお待ちください。ミルフィーユをテーブルの上で切るのはいつものやり方ですか?」ホームズが訊ねた。
「いいえ、あの日は特別でした。なんとミルフィーユの上にイタリア王国の国旗が赤や緑の砂糖菓子で描かれていたのです。それをジョンソン夫人が切り分けてそれぞれの皿に置いていきました。ラム酒風味が大変好評でした」とブランドフォード卿は答えた。

そのあと、クッキーの乗った皿が出されドーセット卿の身に異変が起こったのだった。ドーセット卿は二度目の結婚だった。去年の末に最初の妻を亡くし、1年も経たないうちに再婚したのでなにかと噂になっていた。
ベリー氏夫妻は仕事の関係で多数の珍しい植物を収集していた。温室のいくつかの花の実には毒があると信じられていたが、長く住んでおり、人づきあいも良いので恐れられたり不審がられたりすることはなかった。

レストレード警部は、ブランドフォード卿夫人がドーセット卿にたいして抱いていた一方的な思いを、卿の再婚によってひどく傷つけられたので発作的に毒を盛ったと考えていた。ドーセット卿の青い目は非常に魅力的だったと何人もが証言したからだった。
レストレード警部はまた有力な証拠品も手にいれていた。それはロンドンのドーセット卿の屋敷に残っていたブランドフォード卿夫人のものとおもわれる扇と手袋だった。手袋にはイニシャルが刺繍されていた。召使の一人は奥様のものと非常によく似ていると証言していた。
ドーセット卿夫人の死と早い再婚についてもいくつかの情報を入手していた。つまり、彼の友人達の証言によって、ドーセット卿と現ドーセット卿夫人の付き合いは過去2年以上にさかのぼることが確認されていた。

「ところで、ミラノでクッキーの材料はお買いもとめになりましたか?」ホームズは訊いた。
ブランドフォード卿は食品類は買わなかったと答えた。そして、二人で廻ったミラノを懐かしむように話し始めた。宝石店でブランドフォード卿夫人の横顔によく似たカメオを買った話、古美術商の店では数ある大理石の破片の中から1世紀の作と思われる女神像の頭部を見つけた話。
ブランドフォード卿夫人が興味を持った鏡の話などだった。話し終わったときには、両手で顔を覆い泣き出さんばかりだった。

「大丈夫です。気を強くなさってください。ところで、あちらにあるのがその時に買われたものですか?」ホームズは応接室の壁を指しながら訪ねた。
ブランドフォード卿は顔をあげ女神の頭部を飾っている台座のほうへ歩いて行った。「そうです。これがそのとき見つけたものです。かなりの年代物です。この鏡もそうです。これはイタリアの有名な女優がまだ無名ときに持っていたものだそうです。古美術商自身が彼女のファンで数多のライバルを出し抜いて入手したものだと言っていましたが、妻があまりに見つめるので買った次第です」
ホームズとワトソンは古びた女神の頭部を見、少し上過ぎる位置に掛けてある鏡を見上げた。「鏡はここの気候に合わないらしく曇ってしまったのです。妻が申しますのには、ミラノでは虹のように輝いていたそうです。それで曇りが気にならないあの位置にかけて古い形を楽しんでいるのです」
ホームズは鏡の前を右に左に歩きながら鏡のガラスやふち飾りを念入りに観察して「残念ながら鏡の内側に曇りが発生しているようだ」と言った。
「ええ、残念です。珍しい細工なのに」とブランドフォード卿は答えた。
ホームズは「お話は大変参考になりました。気を強くしてもう少しお待ちください」と言って館を後にした。
次にベリー夫妻を訪ねると警官の姿が見えた。ホームズが来ることを予期していたらしく「ホームズ先生、これはお早いですね」と言いながら早足で歩いてきた。
ホームズはその肩にかけたボックスを見ながら、「毒薬が特定できないので温室の植物採集をして来たらしいね。レストレード警部の有能な部下達も今回は相当苦しんでいるようだ」と言った。
「いいえ、レストレード警部の有能な部下は植物性の毒薬だろうと検討をつけたからこうして証拠を持ち帰るのです」と警官はウィンクしながら言った。

「うーん、植物性毒とは」ワトソンはそう言いながら帰っていく警官を見送った。

ベリー夫妻はこれから起こることに神経を尖らせているようだった。「いったいどうしたというのでしょう。どうなっているのかさっぱり解りません。私たちも疑われているようです」
「落ち着いてください。私はホームズと申します。ロンドン警視庁のレストレード警部は友人です。真実を明らかにするためにロンドンからやって参りました」ホームズがそう言うとベリー夫妻は少し警戒を解いたようだった。
そして、ホームズがテーブルに広げたメモを見ながら、パーティの様子を話し始めた。大方はブランドフォード卿の話と同じだった。
ミラノの古美術商の話や船上で聞いた噂話などに興味を持ったようだった。おいしい食事や大きな国旗を描いたミルフィーユが登場したときの驚きについてはふたりとも一致して「あのような素晴らしい食事が出された食卓に毒薬はふさわしくない。なにかの間違いではないだろうか」と言うのだった。

ホームズはそこで「ミルフィーユはテーブルの上で切り分けられたのですね」と訊いた。ベリー夫人は人差し指を立てた右手を左右に振って「少し違います」と言った。
ベリー夫人の話によると、ミルフィーユは上手に切らないとバラバラに崩れてしまうのでジョンソン夫人の手つきをじっと見ていたらしい。ジョンソン夫人はテーブルの真ん中に四角いミルフィーユを置き、全員が感嘆の声を上げるなかで半分に切った。そのあと、ミルフィーユの乗った皿を片手に持ち半分になった国旗の1/3を切り分けて最初にドーセット卿夫人のケーキ皿に置き、次の1/3をドーセット卿のケーキ皿に置いた。
そしてテーブルの周りを回りながら1/3づつミルフィーユを置いていった。ベリー夫人はラム酒が全体を引き立てているミルフィーユの味に満足したようだった。
ホームズは両手の指でつくった三角形を口元に置いて「ベリー夫人、とても興味深いお話です。差し支えなければナイフについてもお聞きしたいのですが、1本のナイフで切り分けたのですか?」と言った。
ベリー夫人は、ケーキを型崩れさせないで切ることをいつも念頭に置いているらしく確信を持って言った。「あの時は2本のナイフを使い分けようとして少し失敗しました。大きなナイフを使って半分に切り、次に小さめのナイフで1/3に切りましたがこのとき少しひび割れたのです。もう少しでバラバラになるところでした。そこでジョンソン夫人は小さいナイフをあきらめて最初のナイフを使用することにし、後はうまくいきました。
「ありがとうございます。すぐれた記憶力に感謝します。最後の質問になりますが、全員がミルフィーユを食べ終わったあとでクッキーを出されたのでしたね。これは非常に重要です。もし、誰かが何らかの目的を持って毒薬を調合したとすれば、このような場合、調合した本人は毒薬には手を出さないと断定できるからです」ホームズは微妙な質問でベリー夫妻がパニックを引き起こさないように静かに訊いた。

ベリー夫妻は慎重だった。温室の植物のうちのひとつがドーセット卿の死に関係があるかも知れなかったからだ。
「温室にはカギはありません。しかし、熱帯の植物には未知の毒のあると信じられているようですが、私たちは珍しい葉や花を楽しんでいるだけで、それに盗まれた形跡もありません」ベリー氏が先に言った。

「クッキーは花模様の美しいお皿に盛られていました。ミルフィーユの後、すぐに出されたんです。全員でいただきました。まちがいありません。イギリスのものより柔らかいようでしたがとても洗練された味でした。あとで作り方を教わろうと思っていました」とベリー夫人が続けた。
「私はアフリカの戦況や鉄道開通の話をもっと聞きたいと思っていたのですが、話の途中でドーセット卿の顔色が変わり口と鼻から血が流れてきました。そして立とうとして椅子と一緒に後ろに倒れたのです」
「全員が同じものを食べたかどうかですな、質問は。全員同じものを食べたと断言できますよ。ただドーセット卿夫人は外国人なので、ミルフィーユのくずれた破片がいくつか皿に残っていました。しかし、とても美味だと言っていましたよ。アフリカの情勢についても聡明な意見をお持ちのようでしたし、ご結婚したばかりなのにこのような悲劇に遭遇するとは、お気の毒です」とベリー氏が言った。
「本当にお気の毒です。だけど、外国人だからってミルフィーユがくずれる訳はありませんよ。ジョンソン夫人が切り分けるときに失敗してもう少しでバラバラになるところだったからでしょう」とベリー夫人が言った。ベリー夫人はパイを切り分けるときに粉々にした経験があるのかも知れないな、とワトソンは思った。

ロンドンへの帰りの馬車の中でホームズは言った。「現場を見るのがこれほど重要な事件には今まで出会ったこともない」
「もう犯人が分かったのか」ワトソンは揺れながら言った。「いや、まだだ。動機がわからない。動機こそが恐ろしい計画を練るのだから」
「動機か。計画的犯罪の大半は欲望が原因だな」ワトソンはホームズとともに解決した事件を思い出しながら言った。「なんだろう。一体、殺人まで犯して手に入れたいものとは」
「もしくは、怒りとは」とホームズが続けた。「えっ、怒りだって? たしかにドーセット卿は政敵や商売にからむ敵が多かったようだが、内輪の小さなパーティにまでは入ってこないだろう」

翌日、ホームズとワトソンは、レストレード警部からの誘いでウエストミンスター橋近くのレストランに行った。警部は広げていた新聞をたたみながら手で合図を送ってきた。
「思わしい結果がでなかったと見えるね」とホームズが言うと「ベリー氏の植物園からはなにも出なかった」とレストレード警部が答えた。
「それで、ホームズの推理を聞きたいのか?」とワトソンが言うと「いや、お茶をごちそうしたいだけだ」とレストレード警部がいうと同時に、ウェイターがティーカップと紅茶のポットをテーブルに並べた。そして、つぎにケーキ皿にミルフィーユとクッキーを載せてテーブルに置いた。
「おぉ これはすごいね」ワトソンは笑いながらいった。「なるほど、残っていたクッキーからも何の毒も検出されなかたというわけか」ホームズはクッキーに手をだしながら言った。
「そうだ、あの日に押収したクッキーを分析したが何も検出されなかった。それで、未知の毒かも知れないというので、残ったクッキーを全部ネズミに食わせたんだが、今日にいたるまで元気だ。肥っているよ」

「結局、ドーセット卿から検出された毒がどこにもないんだ。このティーセットが怪しいと分っているんだが」レストレード警部はそう言って紅茶をかきまぜた。
「ところで、今日は特別な話があるんだ。モリアーティ教授が動いているという情報が入った」
「そうだったのか!!」ホームズはその恐ろしい名前をかみしめるように言った。「モリアーティ教授!」

     - * -
「ワトソン、行くぞ。やっと整った」突然ホームズが飛び込んで来た。「どうしたんだ。何の連絡もないので、今までの毒物関連の事件を再調査していたところだ。今日は、このヒ素による夫殺害事件の資料を読まなければならないんだが」
「君はドーセット卿夫人との約束をフイにしてもいいと思っているのか。行くぞ」

ドーセット卿の屋敷は高い鉄の扉のはるか向こうに黒々とたたずんでいた。馬車は木々の間を通り馬車を回す半円のあたりで止まった。石段の横に青いスカートの召使が立っていた。
「ホームズ様とワトソン様ですね。奥様がお待ちです。こちらへどうぞ」
二人が通された応接室は高い窓の向こうに庭の木々が見える明るい部屋だった。「ようこそ、ホームズさん」窓を背にした椅子からドーセット卿夫人が立ち上がった。ホームズと肩を並べるほど背の高い女性だった。
夫人は非常に美しくベリー氏の言ったとおり知的で意志の強さを感じさせた。「今日のご用件はどういったことでしょうか? 高名なホームズさんがわざわざおいでくださるとは。夫の件でなにか教えていただけるのでしょうか?」
ホームズは単刀直入に言った。「私はある方の依頼を受けてこの事件を調査しております。その調査から得られた結論の最後の確認のためにこちらに伺わせて頂きました」
「まず最初にブランドフォード卿夫人の名誉を守らなくてはなりません。あの手袋と扇子はあなたが置いたものではありませんか?」ホームズの問いかけにドーセット卿夫人は驚いて目を見開いた。ワトソンも同様に驚いてホームズを見返した。
「いいえ、ちがいますわ」ドーセット卿夫人は蒼白になりながら答えた。

「あなたはジョンソン夫人からあの手袋と扇子を受取っておいて最も効果的に警察に発見させた。片側に猛毒を塗ったナイフをジョンソン夫人に渡したのもあなたではありませんか?」ドーセット卿夫人は驚愕のあまり声も出ない様子だった。
ドーセット卿夫人がこの会見にそなえてあらゆる場面を想定していたとしても、その蒼白の顔色とブルブルと震える手は言葉以上のものを語っていた。「いいえ、いいえ、ちがいます。どうして? ナイフが…」

ワトソンはドーセット卿夫人が失神するのではないかと恐れたが、夫人は大きく見開いた目でホームズを見つめていた。ホームズは続けて言った。
「あなたは、猛毒の植物から採取した粉末を片側に塗ったナイフを使って、ドーセット卿のミルフィーユにだけ毒を混入させることに成功したのだ。そして、毒が胃から吸収される時間を見計らってクッキーを運ばせた。おそらく2分以内だろう。用心深いあなたは、安全と分かっていてもケーキの半分以上を食べることができなかった。それでも疑われずにすんだのは崩れやすいミルフィーユだったからだ」
「なんという計画性だろう」

ドーセット卿夫人は蒼白の顔でホームズを見続けた。少しの沈黙が訪れた。夫人は目を閉じて祈るように顔を伏せた。そして顔を上げたときには、意志の強い顔を取り戻していた。そして話し始めた

「私の母はアイルランドの出身です。母は10才の時父を亡くし、母、つまり私の祖母に連れられてアメリカに渡りました。私はアメリカで生まれました。ジャガイモが全滅しイングランドから高い食糧を買わなければならなかったこと、悪徳商人がさらに値を上げてすべての財産を失ったこと、アメリカへの渡航費用を捻出するために無理をした挙句祖父が倒れたことを母からききました」

「君はイングランドを憎んでいたのか。だからといって夫を殺すなんて」ワトソンは強い口調で言った。
ドーセット卿夫人はワトソンの言葉を聞いていないかのように続けた。「アイルランドの自治権は血の出るような願いでした。ドーセット卿はフランス人との訴訟沙汰の解決と引き換えに自治法案否決の工作をしたのです」
「ああ、上院で否決された件か。しかし、あれはイングランドの問題だ。君はアメリカ人だろう、なぜ」
その時、ドアがノックされ先ほどの召使が入って来た。「奥様、レストレード警部様がお見えです。玄関までいらしていただけませんでしょうか」

「えっ」「レストレード警部が?」ホームズとワトソンは顔を見合わせた。ドーセット卿夫人は立ち上がり「申し訳ございません。少しの間失礼します」と二人に言って召使と一緒に部屋を出た。

ワトソンは「たとえ証拠がなくてもドーセット卿夫人のあの動揺振りは自白も同然だ。しかし、あの蒼白の顔を見たのが我々二人だけでは有罪にはならないだろう。物的証拠はどうするんだホームズ」と立ち上がって窓の方へ歩きながら言った。
「それに依然として毒物の特定ができていない、ナイフなんて当然洗っているし、ジョンソン夫人を締め上げたってたいしたことは知らないだろう。いい手はあるのか?」
「お茶も出ないとは」ワトソンはあれこれとホームズに言ってみたが、ホームズはじっと考えごとをしていてなにも言わなかった。
「遅いな、なにをしているんだろう、レストレード警部は」

突然ホームズが立ち上がった。「ワトソン、早く!」
「どうしたんだ、ホームズ」ホームズは応接室のドアを開けて走り出したので、ワトソンもあわてて後を追った。誰にも会わなかった。ホームズとワトソンの足音だけがむなしく天井にこだました。
召使もドーセット卿夫人も消えていた。
「レストレード警部の名前は我々を騙す合図だったのだ。おそらくすべての用意をしたうえでの会見だったのだ。ここまでの用意周到さはあのモリアーティ教授に違いない。もしモリアーティ教授がこの事件をしくんだとすれば、この僕が事実を知っているかどうかをドーセット卿夫人に確認させたのだ」
「ああそうか。ということはもう逃げたのか」ホームズとワトソンは広い庭に走り出たがサワサワと揺れる木々が人の気配を消し去っていた。
「馬車の用意もしていたのだ。おそらくもう二度と帰ってこないだろう」

「しかし、それでは疑われるだけだろう。我々の証言と逃げた事実があれば手配できるはずだ」とワトソンは言った。
「無理だ。動機もなく、毒物の検出もなく、何ら証拠らしいものは残っていない。夫の財産を狙ったのならここに残って弁護士を雇うはずだ」
「動機ならさっき聞いたじゃないか。アイルランド自治法案が否決されたことで目的を失ったと、しかし、若くて美しい女性がドーセット卿夫人の座と政治の話を秤にかけるとはおもいにくいな、確かに」

「僕が気になっているのはモリアーティ教授の目的だ、なぜドーセット卿を狙ったのだろう」ホームズは過去の確執から、モリアーティ教授の幻影から逃れられないようだった。
ワトソンはモリアーティ教授がこの事件にかかわりがあるのかどうかについては半信半疑だったが、女性ひとりの犯行とも思えなかった。

翌日、レストレード警部を訪ねたホームズ達はドーセット卿夫人との会見の内容を詳しく伝えた。レストレード警部は驚きながら聞いていたが、やがてポツリと言った。
「この事件には、二つの面があるんだ。単純な男女間あるいは近隣のトラブルというローカルな問題と、アフリカの植民地をめぐるフランスとの政治問題という面だ。そう見えるのはドーセット卿の死によって利益を得る者がいないという事実と、ドーセット卿の仕事や付き合いが事故死という単純さを許さないことによるんだ。
単純な男女間のトラブルという当初の説も捨てきれないんだが、毒物が検出されないことによって現場の士気も落ち気味なんだ。ホームズの推理通りであれば検出できない理由も納得できるが証拠が皆無だ。私の長い経験から犯罪であることは間違いないと思えるんだが今のところどうしょうもない」

「ドーセット卿がフランス人から訴えられていた内容を教えてもらえませんか」ホームズはレストレード警部の方に身を乗り出して訊ねた。
「ああ、いいだろう。原告はフランスの実業家だ。名前はダルヴォワ氏、北アフリカから西アフリカにかけてのフランス植民地で鉄道関連の事業を営んでいる。彼の訴えによると昨年の12月10日、本国へ帰る船の中でたまたま同じ船に乗り合わせたドーセット卿に手荷物を盗まれたと言っているんだ。その怒りは大変なもので、もし返還に応じない場合は相応の手段に訴えると言っているらしい。この部分は確認したわけではないがね。
ドーセット卿は無実を証明するための協力を惜しまないとのことだった。ドーセット卿は、彼の妻が病気という連絡をうけて帰国するところだったらしい。しかし、ダルヴォワ氏はフランスの有力者達と図って、アフリカの鉄道への投資を無にしてやると脅したんだ。莫大な投資をしているドーセット卿や彼の友人達はその脅しが今後の利益に影響するかどうかを検討した結果、やっと収穫期に入った果樹園に新聞記者や外国人を多数入りこませるのは得策ではないと判断した。
そして、真実の調査をし結果を報告することを確約したんだ。ダルヴォワ氏が約束程度で納得するとは思えなかったが、スコットランドヤードの手を借りて取り戻すしか手がないと悟ったのだろう」
「それで盗まれたモノは何なのか聞いていますか?」
「アフリカの鉱山の鉱石サンプルだそうだ」
「サンプルならもう一度採掘すれば良いだろうに、もちろん良質鉱山の権益取得に秒を争う状況だったかも知れないが」とワトソンはただの石ころの出現に不満そうに言った。
「たしかに少し妙だ」ホームズもつぶやいた。

     - * -
「アフリカで大きなダイヤモンドの原石が見つかったのではないだろうね」とワトソンは帰りの馬車の中で言った。ホームズも「確かにダイヤモンドを収めた手荷物が盗まれたのなら納得できるよ、秘密にしておきたい理由も分かる」と言って目を閉じた。モリアーティ教授の目的が分からないことがホームズをいら立たせているようだった。

翌日の午後、ワトソンがホームズの部屋を訪ねるとホームズの部屋は紫煙で薄暗くなっていた。「どうしたんだ、これはあんまりだ。医者として、君の肺のために新鮮な空気と入れ替える必要性を感じるよ。いいかい?」と言いながらホームズを振り返ると、考え事の最中らしくパイプの煙がちょっとYes方向に動いただけだった。ワトソンは少し窓を開けた。
ワトソンはホームズの心ここにあらずといった様子を見ながら、これでは何の進展もないようだと諦めて部屋を出ようとしたとき、階段を駆け上がって来る足音が聞こえた。「ホームズ先生、ありがとうございます」と言う声と一緒にドアが開いてブランドフォード卿が入って来た。その後ろからハドスン夫人がいつも声で言った。「ホームズ様。ブランドフォード様がお見えです」
「おお、これはブランドフォード卿、突然のご訪問から察すると良い展開があったようですね。話していただけますか」ホームズはにこやかに立ち上がった。
ブランドフォード卿は、昨日のレストレード警部の突然の訪問から話し始めた。もちろんすでに確認済の内容ばかりだったが、ホームズは注意深く聞き入っていた。
「そして最後にレストレード警部はこう言ったのです。ホームズの推理はいつも見事だ、今回も正しかったようだと、おわかりですか? ホームズ先生の推理が、北極海の氷のように厚い疑いを打ち砕いたのです。お礼を申し上げます。ありがとうございました」
「当然のことです。奥様はただ不幸な偶然の場に居合わせだけです。ところで、ジョンソン夫人は昨日は居なかったのではありませんか?」ホームズが訊ねた。
「ええ、それは何日か前にロンドンの料理人の紹介所から依頼があって、ジョンソン夫人とコルソン夫人と交代することになったのです。ジョンソン夫人が以前働いていたところから良い条件の申し出があったそうです。これは何か重要なことですか?」とブランドフォード卿は答えた。
「ジョンソン夫人が以前働いていたところの名前はお聞きになっていますか?」
「依頼状の文面にはM教授と書かれていたと思います」
「おぅ、それは、A.MでもH.MでもなくMだけですか。ありがとうございます。よく教えて頂けました」ホームズも立ち上がってブランドフォード卿の手を握った。

ブランドフォード卿は礼儀正しく礼を言って帰って行った。
「やはり、モリアーティ教授だったのか。証人も証拠もすべて消えてしまった。犯罪が残っているだけだ」ホームズは残念そうに言った。
「しかし、ジョンソン夫人は本当にモリアーティ教授の近辺にいるんだろうか? いったい何人と繋がっているんだ」とワトソンはカーテンの陰から道路を見下ろしながら言った。混雑した道路の向こうには急ぎ足で角を曲ろうとしているブランドフォード卿の背中が見えていた。
「いや、モリアーティ教授の近くにはいないよ。きっと善良なマーティ教授だかの屋敷にでもいるんだろう。ロンドンからはるかに遠い州のね」
ワトソンはブランドフォード卿の背中をみながら、「あの様子だとレストレード警部は夫人の手袋の話はしていないようだな」と言った。
「だろうね、たとえ聞いていたとしても信用しなかっただろう」
「ところで聞いていいかい、真犯人が捕まっていない今回の事件は君の今後の仕事に問題を残すと思うかい?」とワトソンはホームズの方を振り返って訊いた。
「なんでもないよ、今回の依頼はブランドフォード卿夫人の無実を証明することだったんだ」

ホームズもワトソンも黙った。何かがあるのは確かだが逃してしまったと。

     - * -
モリアーティ教授は手下の一人と馬車の中にいた。
「ドーセット卿夫人はアメリカ行きの船に乗ったのか?」とモリアーティ教授は訊いた。
「ええ、確認しました。モース教授のご親切に感謝すると言っておりました。いつかアイルランドへ帰るとも言っていました。本当に女の身でアイルランドの政治にかかわるつもりのようでした」手下は言った。
「なぜアメリカ人がアイルランドの政治に口をだすのか理解できませんね。本当にあのように美しいのに、何を言っているんだか」と手下は頭を振りながら付け加えた。
「彼女は彼女の母親の不条理を自分のものとしているんだ。母親は娘には楽しい話と美しい話をするべきだった。彼女は母親の代理としてスカートからズボンに穿きかえることにしたんだ、あの勇ましいアンリ六世妃のように」
「そうすれば、イングランドのズボンを盗むことなく、スカートをはいていられただろう、というところですか」と手下はシェークスピアをもじって言った。
いつになく会話がはずむのはモリアーティ教授が上機嫌のせいだった。
馬車はファーンボロー・ヒルの前を通り過ぎようとしていた。
「あの屋敷の主人を知っているか?」モリアーティ教授は言った。
「いいえ」と手下は答えた。
「元フランス皇妃だ、ナポレオン三世の皇妃がお住まいだ。本来なら自分の名前の付いたいくつかのダイヤモンドと伝説に取り巻かれてお暮らしのはずだが、今は伝説だけが彼女のものだ。
手下は「コンピエーニュ」と名づけられた公園のあたりに目をやった。
「ところでドーセット卿夫人から受け取ったものを見たいとは思わないか?」モリアーティ教授は膝の上の箱を軽くたたきながら言った。
「ドーセット卿はあまり正当とはいえない方法でこれを自分のものにしたらしい。だが、彼にはこれを開けることができなかったのだ。そして、錠前のように口が堅い錠前屋を密かにあたっているという情報が私の耳に入った」
「私は思ったよ、どのような犠牲を払ってでも手に入れたいと、たとえホームズと争うことになってもだ。そこでアフリカの植物の研究をしているモース教授になりすまして、アフリカの植民地で事業を営んでいる彼らの内輪の集まりに参加させてもらったという訳だ。そこで未来のドーセット卿夫人と知り合った」

「彼女は夫殺しを承知したのですか?」手下は無遠慮に言った。
モリアーティ教授は片方の眉を大きくあげた。「なぜかと問いたいのだろう。それは、彼女の夫がその昔、硬いパンを10倍の値段でアイルランド人に売った商人達の家系だったのかも知れない、あるいは夫と一緒にアイルランドの自治獲得に向けて行動できると、考え違いをしていたことに気付いたのかも知れない」
「いずれにしても、彼女は次の行動の障害となる石を取り除き、私はこのアフリカからの小さな荷物を手に入れた。所有者は他の誰でもなく私だ」
「ホームズの推理は見事だったよ。しかし完璧ではない。この箱の中身を知らない限り空論に過ぎないのだ」
モリアーティ教授は箱を開いた。いくつかのダイヤモンドの指輪や真珠のネックレスが縦に横にしっかりと納まっていた。そしてその中央には濃い青のベルベットの上に、赤いルビーのついたネックレスが横たわっていた。
この世のものとは思えない赤色だった。ルビーの周りのダイヤモンドは、馬車の小さな窓からの光をうけて虹色の火花を散らせていた。手下は驚愕の表情を抑えることができなかった。
モリアーティ教授は、気取ってシェークスピアなどを引き合いに出す手下の顔が崩れるのを見て満足した。

「アルカディアの赤い星だ。ついに私のものになったのだ!」