TOPへ戻る ランプの蓋に刻まれた文字  
アヌビス神  キラムワとラキブエルの仕事は、羊の番をすることだった。二人は、父親が兄弟だったせいで顔も背丈もそっくりだったが、キラムワのほうが少し年上で少し背が高かった。大人達が畑を耕している頃、キラムワとラキブエルは羊の群れを追って近くの丘へ行き、夕方に帰って来るのだった。
 その日は、隣村に住んでいるハヤ叔父のところへ羊の群れを連れて行くことになっていた。キラムワとラキブエルは、もう男部屋の住人になっていたので、部屋の男達から、道中の忠告を何度も聞かされた。
 「全部の羊を届けるのだぞ。一匹も失ってはいけない」
 「途中の古い城跡で水を飲むのは良いが昼寝はだめだ」
 「寄り道をしてはいけない。枯れ谷を通っていくんだ。今は草も多いからな」
 とはいうものの、別に初めての仕事という訳ではなかった。隣村はここから半日の距離にあり、ハヤ叔父は、キラムワの母親の一番若い弟だったので今までに何度も行ったことがあるのだ。
 ハヤ叔父は二十歳を過ぎたばかりの船乗りだった。エジプトやカルタゴにまで行ったことがあるので、キラムワとラキブエルは、ハヤ叔父の話を聞くのを楽しみにしていた。
 羊を売る話はハヤが持ち込んできたものだった。ハヤと同じ船乗り仲間で、すでに老人になりつつある男が、船を降りて老人の父親がそうだったように、羊の群れを追いながら暮らすことにしたので、元気の良い羊を売ってほしいと言ったのだ。ハヤはすぐに姉であるキラムワの母親に相談した。キラムワの家族はシドンの町に近い村に住んでおり、タマネギや豆を町の市場で売って生計を立てていた。羊も飼っていたのだが、畑の収穫を多くするため数を減らそうとしているところだった。羊を売って少しまとまった金が入れば、隣の畑を自分たちのものにできるあてもあった。

 二人は、キラムワの母親から丸いパンを一つづつもらって、30匹ばかりの羊をつれて出かけた。少し歩くと地平線から太陽が昇りはじめた。乾いた一日の始まりだ。
 羊はゾロゾロと集団で歩き、二人は群れの横になったり後ろになったりしながら歩いた。枯れ谷は冬になると小さな川になるのだが、今は背の低い木や、草の塊があちらこちらにあるだけだった。
 太陽が真上を通り過ぎたころ、古い城跡に着いた。日干し煉瓦の残骸や、模様の刻まれた石が、その昔ここに人の住む町があったことを示していたが、それ以上のことは誰も知らなかった。羊飼いたちがここに立ち寄るのは、この廃墟に泉がわき出ている場所があったからだった。ヤシの木が目印だった。ヤシの木は根が水の中にあることを好む植物なのだ。大きな岩とヤシの木は貴重な日陰も提供していた。

 キラムワとラキブエルは岩の陰でパンを食べ水を飲んだ。二人が腰かけている半分砂に埋もれた石は、円柱の一部らしく、様式化された動物の姿が刻まれていた。ラキブエルが腰かけたまま足もとの小石を蹴った。キラムワも足元の小石を砂と一緒に蹴った。たわいもないことがおかしいので、できるだけ遠くへ小石を飛ばす競争になった。キラムワが砂を蹴ったとき、少し掘り返された砂のなかに小さな金属が見えた。二人は、とてつもない発見かもしれないと思って慎重に金属の周りの砂をどかしていった。小さなランプが一つ出てきた。
 キラムワは自分のものだと言ったが、ラキブエルが承知しないので、二人のものだということにした。

 しばらく歩くとハヤ叔父の住んでいる村が見えてきた。ハヤは羊を数えて柵の中に入れた。明日、羊が元気に草を喰う姿を確認してから老人に知らせるつもりだった。あら布で拭いて少し毛のツヤを出すのもいいなとも考えていた。
 キラムワとラキブエルは羊の世話をしながらハヤの家で過ごした。三日目に例の老人がやって来た。老人の顔や腕には、長い船乗り生活の跡が残っていた。強い日差しと潮風に当たり続けたので、老人の顔にはワニの頭のような深い皺がきざまれていた。早速、ハヤと老人は柵の中の羊を見ながら値段交渉を始めた。

 それから2年が過ぎたある夜、ハヤがやって来て、キラムワの母親や父親の兄弟達と相談を始めた。戦争が始まるのだ。シドンの町の市場で野菜を売っている母は噂話に敏感だったし、ハヤは、ペルシャ王がエジプト遠征船の提供を、シドンの王に命令したことを知っていた。エジプトとアジアの大国の中間に位置するフェニキアの都市は、それらの国に野心家の王が現れるたびにその遠征軍の通り道となった。フェニキアの都市は、いずれか一方に船団を提供し、繁栄を続けてきたのだった。
 今回エジプト遠征を思い立ったのは、キュロス大王の長子カンビュセス王だった。逆らうことはできなかった。今、アジアの土と水はすべてペルシャ王カンビュセスのものなのだ。シドンの王は、カンビュセス王のために、多数の船の建造と兵士の募集を始めた。
 ペルシャ王は、アラビア王にも使者を送っていた。悪魔の吐息が噴き出す砂漠を横断するためには、大量の水を提供してもらわなければならないからだ。
 ハヤは遠征に参加するつもりだった。姉であるキラムワの母親は心配そうだったが、エジプトもカルタゴも自分の庭のようなものだ、というハヤの言葉に少しだけなぐさめられた。
 キラムワとラキブエルの父親やその兄弟たちは、ハヤが兵士となることに反対ではなかった。戦争が始まれば男は戦争に行き、運が良ければそこそこの金を手に入れて帰って来るのだ。それより問題は広い畑に植えた豆のことだった。収穫前の畑を荒らされたくはなかった。キラムワとラキブエルの父親やその兄弟たちにとって、収穫した豆を高く売ることは、戦争に行って恩賞をもらうのと同じくらい大事なことだった。

 ついにカンビュセス王の大軍がやって来た。
 ペルシャ王カンビュセスは、シリアの各都市から徴募した兵士と、戦争で儲けようというあらゆる職業の人々を従えてやって来た。
 キラムワとラキブエルの父親やその兄弟たちは、畑から多くの収穫を得ることはできたが、多くの収入を得ることはできなかった。大半のタマネギや豆は、ペルシャ王の兵士たちを養うために役人に渡さねばならなかったからだ。しかし、キラムワの母親は、残ったタマネギを、兵士たちのために特別に開かれた市場で売って逞しく儲けて来た。
 ハヤはシドン王の船団に乗り込んでいた。船団の装備と食糧や備品の積み込みには、多くの日数と経験が必要なのだ。フェニキアの都市にはその経験の蓄積があった。また、背後に高くそびえる山々には、船の建造や修理に必要な杉の森が広がっていた。

 エジプトは、自国の軍に加えて地中海の国々から傭兵部隊を雇うのが常だった。今回もギリシャ軍が参戦し、ナイル河の河口ぺルシオンに集結していた。
 シリアを通り抜け、アラビアの水のない砂漠を越えてやって来たペルシャ王カンビュセスの軍は、ペルシオンで待ち構えていたエジプト王の軍と激突した。双方に多数の犠牲者が出たが、ついにエジプト軍は敗走しメンフィスまで逃げて立てこもった。ペルシャ王カンビュセスは、メンフィスを包囲し攻撃を加えた。エジプト王プサンメニトスは耐えきれず降伏した。
 常々エジプト王の態度に思うところのあったペルシャ王カンビュセスは、征服したエジプトの信仰や習慣にまったく敬意を払わなかった。エジプト王プサンメニトスの父王アマシスのミイラを葬室から運び出し鞭打ったが、ミイラが苦しむ様子を見せないので焼き捨ててしまった。また、古い墓を暴き、神殿に火をつけた。
 カンビュセス王が神殿を燃やしたのには理由があった。ある日、神官に案内されて古い神殿を訪れたときのことだった。暗い部屋に目が慣れると天井にまで描かれた壁画が見えてきた。戦う王の姿や、イシス女神の姿がヒエログリフとともに描かれていた。ジャッカルの頭を持つアヌビス神の前に行ったとき、アヌビス神がその黒い顔をゆっくりとこちらに向けながら言ったのだ。

 「キュロスの子カンビュセスよ、そなたの父王が最後に見た夢を知っているな。われらはその日が決まったことを告げに来た」

 カンビュセス王は、驚いて、壁画の描かれた部屋から走り出た。あわてて後を追うエジプトの神官やペルシャの高官には目もくれず、神殿の石の廊下を走った。やっと明るい太陽の元に出た時、傍の兵士に言った。「神殿を燃やせ!」

 メンフィスの城に戻ったカンビュセス王は、マゴスを呼んで言った。「ジャバルスよ、お前はわしの父であるキュロス大王がマッサゲタイ族の草原で見た夢を知っているな。それについて思うままを言ってみよ」
 マゴスとはゾロアスター教の祭司であり、王のそばで夢の解説や、未来を予言する占い師でもあった。「王よ、キュロス大王がマッサゲタイ族の国へ入った夜に、神霊が夢に現れてお告げになったことはよく存じております。王の家臣ヒュスタスペスの息子であるダレイオスの肩に羽が生え、アジアとヨーロッパの土地を覆う夢でした。しかし、今に至るもダレイオスの肩には何も生えておりません。聞くところによれば、先日、広場で名も知れぬ男を呼びとめて、肩に羽織る赤いマントを譲ってもらう交渉をしていたそうです。ダレイオスは赤いマントさえ持っていなかったのです。それにひかえ王の威勢の羽はすでにエジプトを覆っております。古い言葉は消えたように思われます」
 「ジャバルスよ、よくわかった。わしとしたことが古い墓ばかりを見せられて気が迷うところであった。わしはこの羽をアンモンとエチオピアまで広げる決意ぞ」

 カンビュセス王は、軍を分けアンモン攻撃に向かわせた。ペルシャ軍はテバイから7日間砂漠を歩き、オアシスの町に着いた。そこからアンモンへ向かって進み、そして、一人も帰ってこなかった。アンモンの秘宝を奪おうとして全滅したとも、激しい砂嵐に襲われて砂の中に消えたとも言われている。

 このとき、たまたま聖なる印を持つ牛アピスが出現した。エジプト人達はこの牛の出現を喜び祝宴を催した。カンビュセス王は、アンモン攻撃が失敗したことを知ったエジプト人達が、聖牛にペルシャ打倒祈願をしているのではないかと邪推し、役人を呼んで聖牛を曳いてこさせた。王はエジプト人の祭司に訊ねた。「これなる牛は神であるのか」
 祭司は答えた。「黒牛であるのに、額に白い四角の斑点があり、また背中に鷲の形が浮き出ております。その他の特徴もそなえておりますれば、100年に一度現れる聖なる牛に間違いございません」
 それを聞いたカンビュセスは、エジプト人達が聖牛を反乱の口実にしようとしているのではないかと益々疑い、ついに自分の刀を抜いて牛に切りつけてしまった。刀は牛の腿を切った。
 「見よ、普通の牛と同じ血が流れ出るではないか。この牛が神であるものか。王を騙す愚か者め」

 エチオピアへはまず偵察部隊を派遣した。偵察部隊は無事エチオピア国に入り、王に面会することができた。「これらはペルシャ王が殊に愛用している品々です。貴王との親交を念願し献上するものでございます」と偵察部隊の隊長はうやうやしく言った。
 エチオピア王は隊長にペルシャの風俗を訪ねた。「主食はなにか」
 「パンでございます」隊長は小麦についても説明した。
 「幾つまで生きるのか」
 「ペルシャでは80が最高でございます」
 エチオピア王はいくつか質問した後、傍の戦士に耳打ちした。戦士は美しい大弓を王に渡した。王は大弓を引きながらペルシャの隊長に言った。
 「ペルシャ王の本当の目的はこのエチオピアの領土であろう。そなたらは本当のことを言ってはおらぬ。この大弓をペルシャ王に渡すが良い、予からの贈り物じゃ。領土のことは、この大弓をこのように易々と引けるようになってから言うがよかろう」

 エチオピアから戻った偵察部隊は、エチオピア王との面会の様子をカンビュセス王に報告した。「これがその大弓でございます」
 ところが、カンビュセス王も兵士達もこの大弓を引くことができなかった。ただ一人、王の弟スメルディスだけは指2本幅ほど引くことができた。王以外の誰もが感歎の声を上げた。

 その夜、カンビュセス王は密かに自分に忠実なペルシャ人のプレクサスペスを呼んだ。
 「プレクサスペスよ、わしの父であるキュロス大王はわしの弟スメルディスに広大な統治権と特権を与えた。その好意を勘違いした弟は、わしの王位をも狙っていることが分かった。お前は弟スメルディスとペルシャのスサへ帰るのじゃ。だが、弟はスサへは着かぬ。弟は紅海を渡りきることはできぬ、分かるな」
 「王よ、心配は御無用です。弟君はもう王を悩ませることはございません」

 カンビュセス王の弟スメルディスはスサへ帰った。カンビュセス王は、大弓の件でやり場のない怒りにかられていたので、早速遠征の準備を始めた。
 食糧の準備もそこそこにエチオピアに向かって兵を進めたが、エチオピアは地の果ての国に変わりはなかった。5分の1も踏破しないうちに食糧が尽き、飢餓に苦しみながら退却するうちに多くの兵を失った。

 エジプトに侵攻して3年が過ぎた時、ペルシャから使いがやって来て、帝国の各地に反乱が起こっていることを伝えた。
 キュロス大王が征服しペルシャの版図に加えた国々は、常に反乱の機会を窺がっていたのだ。

 カンビュセス王はただちに帰国の途に就いた。
 フェニキュア海軍も帰還することになった。フェニキュアの船団は、カンビュセス王の命令でエジプトから多数の略奪品をフェニキュアの港まで運搬していた。ハヤの乗った船も何度かシドンの港へ荷物を運んだ。その中にはペルシャ王からシドン王へ与えられた石棺もあった。エジプトの古い墓を暴いて略奪したものだった。シドン王は、この人の形をした玄武岩製の石棺が特に気に入り自分用の棺とすることにした。
 フェニキュアの港とバビロンやスサを結ぶ道路は人や物であふれていた。人の集まるところには市が立つもので、キラムワとラキブエルもシドンから離れたオアシスの町の市場で働いていた。キラムワとラキブエルはもう自分の人生を自分で拓く年齢になっていたのだ。二人は、付近の農家で早朝に卵や果物を仕入れて、兵士や、戦争で一儲けを狙っている男達を相手に手堅い商売をしていた。

 冬の朝、太陽が昇る前のオアシスの町は、荷車の音も人の声も少なく寒かった。しかし、キラムワとラキブエルはすでに卵と野菜の仕入れを終えてテーブルの上に並べ始めていた。早朝に出発する隊商もあるのだ。キラムワは、テーブルの端にランプを置いて、テーブルの下を片付けていた。大事なものは手足の届く範囲に置いておかなければならない。
 そこへ、りっぱな身なりの男が、ひとりの奴隷を連れてやって来た。黒い髭の奴隷は目付きも鋭く力もありそうだった。市場を歩くときの警護用に買った男かも知れない。「ものうりの息子等よ、尋ねるが、ハオマを売っている店を知らぬか」ハオマというのはゾロアスター教の儀式で使用される植物だった。「殿様、この市場でハオマを売っているのはただひとりでこざいます。太陽が真上を通り過ぎたころ、向こうの角に店を出します。人の話によりますと、朝、秘密の山に登って採ってくるのだそうです」
 「ものうりの息子よ、良く分かった。ところで、このランプはお前のものか」
 「殿様、そのランプはぼくら二人のもので、売り物ではございません」
 「ものうりの息子よ、そのランプに書き込まれている文字を読みたいのだが、見せてくれぬか」
 「殿様、どうぞごらんください。文字はこの蓋に書き込まれていますが、もうキズなのか文字なのか見分けがつきません」
 キラムワは灯りのついたままのランプをりっぱな身なりの男の前に置いた。男は、ペルシャ王カンビュセスの側に仕えるマゴスのジャバルスだった。王のエジプト遠征に従ってエジプトに行き、今また王と共にペルシャのスサへ帰還するところだった。

 (恐ろしい日に巡り合うものよ。この小さい炎はわしに今日がその日であり、今年がその年であることを告げておる。8の年が限られた時だったのだ。兄弟に気をつけろと言うのか。わしにはその他のことも見える、が言わないでおこう)

 「ものうりの息子よ、解った。それにしても、そなたら二人は良く似ておる、誰も見分けがつかぬであろうのう」
 キラムワとラキブエルはもう飽きるほどその言葉を聞いていたので、答えるのが面倒なときは、双子と言ったり、まったくの他人だと言ったりしていた。
 「殿様、ぼくらは兄弟なので似ているのです」
 市場は、早朝の客をあてにした店が次々と商品を並べ始め、荷を乗せたロバや行きかう人々の数も増えてきた。ジャバルスはランプの炎を見、兄弟の顔を見、なにやら納得したように頷きながら言った。
 「ものうりの息子よ、ランプの文字が読めぬであろうから教えよう。"水銀の二つの性質が赤いエリキサを生む" と書いてある。その言葉を必要とする男が現れるまでは無用のものじゃ 」それだけ言うとジャバルスは去って行った。キラムワにもラキブエルにもその言葉の意味は分からなかった。

 その日、カンビュセス王のもとにペルシャから使いがやって来た。使者は陣営の中央に立ち、ペルシャの軍隊に向かって言った。
 「キュロスの子スメルディスは告げる! 諸君は以後キュロスの子スメルディスの命令に服することを誓うように」

 カンビュセス王は、帝国の反乱軍征伐のため急ぎ帰還中であったとはいえ、弟スメルディスの名前を聞いて驚愕した。また、スメルディスがすでに王を名乗っていることに不安を覚えた。
 カンビュセス王は、プレクサスペスを呼び言った。「プレクサスペスよ、わしの耳に間違いがなければ、先ほどの使者はキュロスの子スメルディスの通達と言ったと思うが、わしがおまえに命じた仕事はこうであったのか」
 「王よ、だれもが知っているように死人は口をききません。先ほどの使者を呼び戻し、命令を発したのは誰かを聞き出すのが肝要かと存じます」
 カンビュセス王も納得し、使者を呼び戻して訪ねた。「正直に答えよ、先ほどの通達は、まこと我弟スメルディスから受け取ったのか」
 「カンビュセス王よ、私は王がエジプト遠征に出発して以来、スメルディス殿のお顔は一度も見たことはございません。この通達は、スメルディス殿のご名代のマゴスの方から発せられたものです」
 これを聞くとカンビュセス王はやっと安堵して言った。「プレクサスペスよ、おまえの疑いは晴れた。しかし、我弟スメルディスを名乗る者は誰であろうか、心あたりがあれば申してみよ」

 「王よ、あの使者の言によれば、スメルディス殿のお邸に住んでいる者だと推測されます。マゴスのパティゼイテスではなかろうかと存じます。王がお邸の差配をお命じになったあの男です」
 プレクサスペスは、口には出さなかったがだいたいの想像はついた。あの知恵の回るパティゼイテスは、王の弟スメルディスがペルシャへ帰ったにも拘わらず、一向にスサに着かぬことから暗殺の秘密を知ったのだ。パティゼイテスには、王の弟スメルディスと顔や年格好がよく似た弟がいた。おそらく彼をキュロスの子スメルディスと偽っているのに違いなかった。

 カンビュセス王は、パティゼイテスめが王を名乗っていると知り、怒りの激情でわなわなと震えてしまった。もはや前後の見境もなく、ただの一人でも馬を飛ばしてスサへ乗り込む勢いで馬に飛び乗った。
 ところが、まさにこのときエジプトの聖なる牛アピスの呪が成就したのだ。カンビュセス王が腰に吊るしていた刀の鞘が外れて、抜き身になった刃が王の太腿を切り裂いたのだ。それは、王が聖牛の腿を切りつけたのと同じ箇所だった。
 カンビュセス王は、この傷がもとでこのオアシスの町で亡くなってしまった。

 カンビュセス王には子がなかったので、王弟スメルディスが王を称することに異論はなかった。
 ペルシャに近づくにつれて、新王スメルディスが、国民の負担軽減などの善政を行なっているという噂が聞こえてきた。プレクサスペスも沈黙を守っていたので、カンビュセス王の弟スメルディス暗殺のことを言う者は一人もいなかった。

 誰も知らない秘密をマゴスのジャバルスは知っていた。
 薄暗い早朝の市場で見たランプの炎は、カンビュセス王の最後と、8年の時が満ちた後に起こる騒乱を告げていた。
 8年の時とは、キュロス大王がマッサゲタイ族の国で戦死した9月から数えて丁度8年後の9月のこと。その月が終われば、ヒュスタスペスの子ダレイオスが王となるのだ。キュロス大王が草原のテントの中で見た夢は、時が経っても消えはしなかったのだ。
 あの時、ランプは同じ顔を持つ兄弟を照らして、カンビュセス王の弟と同じ顔を持つ男の恐ろしい企みを教えたのだ。それは、ジャバルスと同じマゴスの家系に属するパティゼイテスとその弟に違いなかった。8年の時が満ちた後、偽王パティゼイテスもその弟もスサにいる仲間のマゴスたちも殺される運命なのだ。

 ジャバルスは、限られた歳月が自分の逃れ得ぬ運命であると知りつつ、なつかしいスサの都の門を通り抜けた。早春の都は美しかった。