TOPへ戻る 盗まれた鏡  
フィレンツェ  夕方に降り始めた雨は、深夜になる頃には激しい土砂降りになっていた。
2階の窓の向こうを動いていた明かりもすでに消え、ブランドフォード邸は黒々と雨の中にたたずんでいた。男は鋭い目つきで辺りを見回した後、高い塀に掛けたロープを掴み素早い身のこなしで塀の向こう側に消えた。後には、強い雨と風のせいで奇妙に揺れる木々が見えるだけだった。

 広間の少々高すぎる位置に掛けられた鏡は、覗き込む人もいないまま少し埃を被っていた。鏡は気候のせいで曇っていて、誰の姿も写すことができなかったので多少ぞんざいな扱いを受けていたのだ。
しかし、誰も気付いてはいなかったが、鏡は時々、虹のように輝きながら鏡だけが知っている風景を映し出していたのだ。

 その夜、鏡は輝いていた。鏡の中では千本の蝋燭が光を放っていた。キラキラと輝く水晶と金で作られたシャンデリアの下では、今、華やかな舞踏会が始まろうとしていた。
その夜の主役は、東洋の日本国の少年使節団達だった。彼らは、キリスト教世界の栄光と偉大さをその目で確かめるために、地球の半分の距離を旅して来たのだ。スペイン国王フェリペ2世の宮廷に滞在した後、ローマ法王に敬意を表するために地中海を渡りメディチの港に寄航したところだった。
トスカーナ大公フランチェスコ1世と大公妃ビアンカ・カペッロは、彼らのために盛大な夜宴を催した。華やかな女官たちのダンスが始まり、宴は一層にぎやかさを増した。そのとき、大公妃ビアンカ・カペッロが立ち上がり、少年使節の一人ドン・マンショの手を取りダンスに誘った。ドン・マンショは一行の責任者であるパードレに許しを求めた後、公妃と踊った。他の少年使節達も女官等と踊った。日本国の公子達は、異国のダンスに戸惑い時々ステップを間違えたが、良い教養と礼儀正しさで、その夜の臨席者たちの歓声と拍手を得た。
ビアンカ・カペッロはその名前の通り美しかった。鏡は、大公妃の髪に編みこまれた宝石やドレスの胸の部分に縫いこまれた真珠が、シャンデリアの光を受けて輝く様子を映していた。
美しいビアンカ、画家は彼女をモデルにしてヴィーナスを描いた。美しいビアンカ、フランチェスコ1世は彼女のために宝石を誂え、彼女のために見事な庭園付きの別荘を建てた。そして恐ろしいビアンカ、彼女は最初の夫と夫の愛人の死を平然と聞き流した。

 フランチェスコ1世と出会った時、彼女は、駆け落ちの情熱が冷めた後の、後悔と倦怠の日々を過ごしていた。捨ててきたヴェネツィアの街が懐かしく思い出された。彼女は、バルコニーの下を通るフランチェスコ1世が自分を見上げて立ち止まった時、倦怠の日々を捨てるために手元にあったバラの花を投げた。バラは大公の腕の中に落ちていった。
その日から、ビアンカ・カペッロはフランチェスコ1世の愛人になった。夫は、愛人になるための障害とはならなかった。しかし、ビアンカにとっては残念なことに、フランチェスコ1世は、やがてその身分にふさわしい結婚をしなければならなかった。相手は、オーストリア皇帝マクシミリアンの妹マリア・ジョヴァンナと決められていた。
マリア・ジョヴァンナは、結婚に先立って交換した肖像画より少し顔色が悪く、少し痩せていた。ビアンカに不足しているものは、皇帝の姉妹という身分だけだった。

 マリア・ジョヴァンナは、結婚の翌年に長女を出産した。男児でなかったのは少し残念だったが、将来にはいくらでも希望があることが証明された。オーストリア皇帝も、義父であるコジモ1世も、この政略結婚が失敗でなかったことが確認できたのでほっと胸をなでおろした。コジモ1世は、異郷の地になじめないマリア・ジョヴァンナのために、邸の窓にオーストリアの町を描かせ、庭には気晴らしの彫刻を置いて心遣いを示した。
しかし、どうしたことか、次々と生まれる児は未熟児か女児だった。5人目に生まれた児がまた女児だと知らされたフランチェスコ1世は、落胆の表情を隠すことができなかった。
義父であるコジモ1世は、翌年、とうとう待ちわびた男児の孫を見ることもなく死んでしまった。

 コジモ1世は、2人の我が子を殺したと噂されていた。長女マリアは従僕と一緒に殺された。マリアはコジモ1世のお気に入りだったのだ。ジョバンニ枢機卿とガルシア卿はささいなことで刀を抜いて争ったあげく、ガルシア卿がジョバンニ枢機卿を刺殺してしまった。泣きながら許しを請うガルシア卿を、コジモ1世は自らの手で殺した。兄を殺した弟などいらぬとコジモ1世は言った。ガルシア卿の死を知らされた母親は、その場に倒れ臥し回復することなく死んでしまった。
そのコジモ1世が死んだことで、少し頭の上の重しがとれたような気になったのは、ビアンカひとりではなかった。気性の激しい父を避けて、錬金術の実験室に籠もりがちだったフランチェスコ1世も少なからずほっとした。

 フランチェスコ1世は相変わらずビアンカに夢中で、ビアンカは贅沢な生活を楽しんでいた。それゆえにビアンカは憎まれていた。
ビアンカは、フランチェスコ1世の愛だけがたよりという心細い状況を、大公の跡継ぎを生むことで変えたいと願っていた。大公妃の懐妊が知らされるたびに、子供のいないわが身が恨めしかった。

 マリア・ジョヴァンナが高名な占星術師を訪ねたという噂がビアンカの耳に入ってきた。占星術師はマリア・ジョヴァンナに「男の子をお生みになります」と言ったというのだ。ノストラダムスはすでに死んでいたが、占星術師の言葉は益々重みを増していた。
ビアンカは大公妃となる夢を諦めなければならないのだろうか。いいえ、とビアンカは自分自身に言った。
ビアンカは急に体調が悪くなったと言い、フランチェスコ1世に妊娠の可能性を伝えた。フランチェスコ1世は半信半疑ではあったが、ビアンカの顔色が何時にも増して青白いので、身体をいたわるようにとやさしく言い聞かせた。
ビアンカはゆったりした服装にあらためて夏をむかえた。そして、健康な男児を生んだ。
翌年、マリア・ジョヴァンナも待望の男児を抱くことができた。フィリッポと名付けられたが、短命である前兆はすでに現れていた。しかし、死はマリア・ジョヴァンナのほうに先に訪れた。

 フランチェスコ1世の弟であるフェルディナンド1世にとっては、見渡す限りのことが不満だった。正義はまったく行われていなかった。兄には服装のセンスというものが欠けていた。騒がしい実験室に籠もり気味の陰気な性格も、偉大な地位にはふさわしくなかった。愛人のビアンカ・カペッロなど見るのも不愉快だった。
オーストリア皇帝マクシミリアンの妹であり、トスカーナ大公妃であったマリア・ジョヴァンナの葬儀の日からわずか7週間後に、愛人のビアンカ・カペッロと結婚式を挙げるなど正気の沙汰とは思えなかった。宝石に埋もれたビアンカ・カペッロは、葬儀の翌日からすでに大公妃気取りだった。
ビアンカ・カペッロの元の夫と、あらぬことを口走りそうな愛人は都合よく死んでいた。その死を希望し実行したのは兄であるとの噂が囁かれていた。なんということだ、結婚式に死体が二つも必要だとは。

 しかし、なによりも恐ろしいのは、私生児であるアントニオを嫡出子として認知したことだった。兄は、ビアンカ・カペッロに強いられて、彼女の生んだ私生児を跡継ぎにしたのだ。不幸なマリア・ジョヴァンナ、彼女は痩せて病気がちだった。生まれた児は皆早世してしまった。やっと生まれた長男フィリッポも5歳の誕生日前に死んでしまった。残ったのは娘が二人きり。弟である自分が跡を継ぐことが、神の定めたもうた道というものなのだ。

 フェルディナンド1世は、ウフィツイ宮殿の窓際に立っていた私生児アントニオを見たときのことを忘れなかった。10歳くらいのはずだった。誰に似ているとも似ていないとも言えない年齢だったが、フェルディナンド1世は見逃さなかった。メディチの血を一滴も受け継いでいないことは明白だった。フェルディナンド1世はビアンカの私生児の調査を始めた。驚いたことに、その子供が生まれた頃の召使が皆消えているのだ。ビアンカが殺したという者まで現れた。しかし、フェルディナンド1世は諦めなかった。
そして、ついに私生児アントニオの秘密が書き込まれた文書を手に入れた。
9月、フランチェスコ1世とビアンカ・カペッロはお気に入りの別荘に滞在していた。フランチェスコ1世は狩りを楽しみ、ビアンカは美しい景色と新鮮な空気を満喫していた。そこへフェルディナンド1世がやって来た。ビアンカは義弟と目が合った瞬間、義弟が得体の知れない決意を固めていることを知った。
しかし、何も知らないフランチェスコ1世は、いつもの通り弟の肩を抱きながら、遠路を厭わず挨拶に立ち寄ってくれたことを喜んだ。フランチェスコ1世は、弟との気まずい関係を修復する機会を待っていたのだ。

 ビアンカは躊躇しなかった。その夜、大量のヒ素を盛り込んだクッキーを焼いてテーブルに並べた。フランチェスコ1世は弟に食べるように勧めた。フェルディナンド1世がクッキーに手を伸ばしたとき、指に嵌めていた指輪の石が奇妙に輝いたので、彼はクッキーを取るのをやめた。兄のフランチェスコ1世が、毒殺を警戒して自分で作った解毒剤を飲んでいたように、弟のフェルディナンド1世も、毒に反応する宝石を常に身に着けていたのだ。
フランチェスコ1世は、弟が警戒しているのを見て、笑いながらクッキーを取って口に入れた。それを見たビアンカは、計画が失敗しすべてを失ったことを悟った。夫を殺した罪を認める前に、自分もクッキーを取って飲み込んだ。

 フェルディナンド1世は、自分の使用人を呼び、大公夫妻をそれぞれの部屋にお連れし、何人も部屋に入れぬようにと言った。フランチェスコ1世はその夜亡くなり、ビアンカは翌日死んだ。フェルディナンド1世は大公夫妻がマラリアの熱で死亡したことと、兄よりすべての権利を引き継いだことを発表した。

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 部屋に忍び込んだ男は、鏡の真下にいた。もう少し後ろに立っていたなら、フェルディナンド1世の指輪が毒に反応して不気味な色に変わる瞬間を目にすることができたかも知れない。しかし彼は、鏡がなぜ輝くのかも、何が映し出されているのかも知らなかったが、この鏡に間違いないと確信した。鏡は高い位置に掛けられていたが、手を伸ばせば鏡の縁飾りをつかむことができた。両手に力を入れて鏡を壁からはずし、持って来た大きな袋に入れて背中に背負った。その姿は、チェロを背負った新人の楽団員のようだったが、雨の中で高い塀を乗り越えるためには仕方がなかった。
男は入って来た窓から慎重に抜け出した。

 「ホームズ、ごらんよ、この記事。また、鏡の盗難事件発生だ。3枚目だよ」ワトソンは新聞から目を離さないで言った。
ホームズはパイプをちょっと傾けて言った。「鏡だけが盗まれる例の事件だね。犯行目的が不明で悪戯説まで出ていたんだが、3枚目ともなると、別の明確な意図を感ずるね」
「おお、ホームズ大変だ。今回被害に会ったのはブランドフォード卿らしい。あのドーセット卿殺人事件のあった館から盗まれたんだ、幸い、被害は鏡一枚だけだそうだ。あの事件と何か関係があるのだろうか?」
「ないだろうね。ドーセット卿殺人事件との関係をカモフラージュするために、余計な鏡を盗むというのは危険すぎるだろう。僕には特定の"鏡"を狙った犯行のように思える。もし、鏡盗難事件がこれで最後なら、犯人は目的を達成したという訳だ、ブランドフォード邸でね」